「仕事とは居場所、人に求められたいという想いこそ本質」仕事を失って見えてきたもの

うれしかったり楽しかったり、あるいは悲しかったり苦しかったり。「はたらく」とはそんな瞬間の積み重ねです。そして、その一瞬一瞬の連なりが、人生を彩っていきます。この連載では、各分野で活躍している人に「はたらくこと」についてのエッセイを寄稿してもらいます。第5回の寄稿者は、文筆業を中心に展示会やイベント出演など幅広く活動するクリエイターの佐々木ののかさんです。

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「仕事はなくなったけど、私は恵まれている」への違和感

仕事とは一体なんなのだろうと最近よく考える。

ある日突然「必要至急/不要不急」という概念が持ち込まれて、生業として成立していたにもかかわらず「不要不急」のレッテルを貼られていく様子を渦の外側から傍観していた3月。

なじみの人や場所が窮地に追いやられているのを見て心を痛め、署名をしたり少額ながら支援したりとできることはやってきたつもりだけれど、それでも「傍観」の域を出なかったのは、私自身の仕事が「必要至急」でも「不要不急」でもなかったためだ。

私はフリーランスの文筆業、いわゆるライターと呼ばれる仕事を生業にしている。この情勢下で私の仕事も例に漏れずほとんどが消し飛んでしまったが、幸いにして、3月までかなり集中して働かせていただいていたから、当分の生活の心配もない。おまけに、取材や打ち合わせもオンラインで完結するので外出せずに済む点でも恵まれている方だろう。

ライターや編集者、カメラマン、デザイナーといった広義での同業者と話していても、皆仕事が減り、企画した展示やイベントが飛んで、収入も落ち込んでいるが「私たちは恵まれているよね」「できることをしなきゃね」と言いながら、懇意にしている場所や人を支援している。フリーランスの人は特に、月の収入が30万円ほど上下することなんて慣れっこだという感覚もあるのかもしれない。

身の安全がほぼ確約されており、仕事は減ったものの、お金にもそこまで困っていない、「必要至急」でも「不要不急」でもない仕事に従事する人。

そこに私も該当するから言いにくいような気持ちがあるけれど、自分が、同じ属性の人が、「(私たちは)恵まれているよね」「できることをしなきゃね」と言うとき、その自分に言い聞かせるような言い方に、えも言われぬ違和感を抱き、澱のようなものが少しずつ心に溜まっていくのを感じていた。

まるで何かを見ないように、あるいは、何かについて見ては、言ってはいけないと思っているような言い方。その「何か」とは一体なんなのだろう。

世の中に必要とされないことの痛み、それを言葉にする恥ずかしさ

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3月中旬頃から、ライブハウス、劇場、書店、飲食店など、自粛要請された場所への補償を求める署名集めやクラウドファンディングなどが始まっていた。

公的な措置ではないという意味で、人々の善意による措置を過剰にもてはやしたくはないが、それぞれにとって大事な居場所を守るために人々が支援をして、目標の数値を達成していく過程には勇気づけられた。それらの数字はそれぞれの場所が求められていることの証明である。そして、そうした“一揆”に僅かながら加担できる機会をもらえることをうれしく思った。

他方、自分の仕事について必要だと思ってくれている人はどのくらいいるのだろう。そう考え始めると、急に心もとない気持ちになってくる。生活費は賄えているからお金が欲しいわけではない。心配してほしい、というのとも違う。ただ、仕事が来ないことはクライアントから求められていないことを示す事実で、読み手の方から声があがるようなことも当然ない。

私は、私の仕事は、世の中に必要ないものだったんじゃないだろうか――。

暗い妄想が頭をもたげてどんより沈みかけ、自責にも近い「恥ずかしい」という感情が喉元までせり上がってくる。こんな情勢下で、他人から求められていない“ごとき”のことに落ち込むなんて恥ずかしいことだ。

ましてや、私は恵まれている。当面の資金もあるし、外出する必要もない。私よりももっと大変な、命を危険に晒して働く人や、莫大な借金を抱えている人たちに比べたらずっとマシだ。私は恵まれている。できることをしなければ。仕事が減ったくらいで、世の中から求められていないことに対して、こんな風に思ってしまって恥ずかしい。

そう感じたとき、私は「恵まれているよね」「できることをしなきゃね」という言葉を思い出した。

何かを見ないように、あるいは、見てはいけないと思っていた「何か」の正体とは、仕事が減り、世の中から必要とされなくなったことについての「痛み」なのではないだろうか。その痛みを認め難くて「恵まれているよね」「できることをしなきゃね」という言葉に変えて、飲み込んできた人たちがたくさんいたのではないかと勝手ながら想像する。

でも、そんな風に思わなくていいのではないだろうか。

世の中から必要とされなくなることに落ち込むことは、そう恥ずかしいものだろうか。

仕事とは社会の居場所、人に求められたいという想いこそ本質

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こちらの写真はイメージです



明日の生活も不安な人、家のない人がいる中で、仕事だけが減ったという状態に落ち込み切れないという心情は理解できる。

しかし、仕事を失うことは、落ち込んだり悲しんだりするのに十分な喪失だと私は思う。なぜなら、私たちは仕事を通じて社会における「居場所」を確保しているからだ。

人に求められて成立することが仕事の本質で、それを失うことは、経済的な逼迫だけでなく、社会における居場所や他者とのつながりの手段のひとつを失うことを意味する。自分の存在意義を感じられなくなる人もいるだろう。

「社会に承認されなければ自分を保てないのか」という批判もあるかもしれない。確かに本来、存在することに他者の承認などいらない。しかし、頭ではそうとわかっていても、この社会において何もせず、誰とも接することもなく、胸を張って存在し続けられる類の強さを持った人はどれだけいるだろう。そうはできないから、自分が“存在していい”ということの不確かさを、仕事をすることで、他者と関わることで充填してきたのではないだろうか。

社会における居場所であり、自分の存在意義を確認する方法のひとつである「仕事」を失えば、たとえ直近の収入に困っていなかったとしても落ち込んだり不安になったりするに十分足る理由になるだろう。それなのに、そうした痛みが自他ともに可視化されてこなかったことが、私の心に澱を溜めていたのだ。

人付き合いが苦手な私にとっては、大半の仕事を失った喪失感は大きかった。莫大な余暇が手に入ったことを前向きに捉えたいとは思いつつ、がらんとした部屋にひとりでいるような、余白の多い今の日常に居場所があるとは思えない。

仕事を失ったこと、減ったことが落ち込むべきことだといって、不安を大仰にあおりたいわけではない。ただ、仕事が減って気落ちすることをとがめる気持ちがどこかにあるなら、堂々と気落ちしてほしいという気持ちで、この原稿を書いた。

緊急事態宣言が解除されても、以前と同じ日常が戻ってくる人は少ないだろう。

仕事は、お金があれば失ってもいいという類のものではない。仕事は、それ自体が、生きていくうえで必要な精神的支柱なのだ。

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文=佐々木ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマにした執筆のほか、映像の企画構成、アパレルのプロデュース、イベント出演など幅広い活動を続けている。初の著書『愛と家族を探して』も上梓したばかり。@sasakinonoka

写真=中村至宏
編集=五十嵐大+TAPE

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