小さな目標の設定が大きな成果に。NON STYLE 石田明が学んだ「無理をしない」仕事術

「爆笑オンエアバトル」チャンピオン、「M-1グランプリ」優勝など輝かしい成績を残すお笑いコンビのNON STYLE。そのネタ作りとボケを担当する石田明さんのインタビューをお届けします。前編では実績を残すための努力や、無理をし過ぎない仕事術について伺いました。

テレビやラジオ、舞台などで活躍する芸人は「自分の力で稼ぐ」というフリーランス感覚を持つ人が多いそうです。そんな中、NON STYLE(ノンスタイル)の石田明さんは「雇われている立場」の自覚があるといいます。その背景には、高校卒業後に2年間料理人としてはたらいていたころに学んだ「自分はチームの一員である」という考えがあります。そんな石田さんが頑張り過ぎたことによって心が弱った時期があると打ち明けてくれました。そのとき支えになった先輩芸人の一言とは? 「今の自分を認めること」の大切さを語ります。

※インタビュー後編はこちら
NON STYLE・石田明の「はたらき方改革」。週休2日で心の余裕を大切に

父親に認めてもらいたい。「親父の敷いたレール」に乗るように料理人の道へ

――高校卒業後に料理人の仕事に就いたそうですが、まずはその理由から教えてください。

父親が料理関係の職業だったので、ぼくはその父の敷いたレールに乗りたかったんです。小さいころに野球をやっていたのも、父がもともとやっていたからで。二人の兄が途中で挫折しても、ぼくだけは続けていました。

兄二人も料理関係の職に就きましたけど、本格的なお店にはいかなかったので、それならぼくはちゃんとした懐石料理屋ではたらこうと思いました。そういう点で、父に認められたかったという動機が大きかったです。

――その当時は「芸人になりたい」という気持ちはなかったのでしょうか?

お笑いには中学生のときに出合っていて、こんな職業に就きたいと思いつつ、自分の性格的に「無理やろ」と諦めていたんです。それより親に認められたいほうが大きかったので就職しました。

――「親の敷いたレールの上を歩きたい」という考えは、珍しいように思います。

今だからそう思えただけで、当時は父親に認められたいという一心でした。気付いたら敷いたレールの上を走らされていたっていうことかもしれませんね。

――料理人としてどれくらいの期間、はたらいていたのでしょうか?

お店を転々としながら2年くらいです。会社員として修行させてもらいました。ぼくの時代はめちゃくちゃ厳しいときで、でっち(雑用や使い走り)のように掃除や洗い物をしたり、ホタルイカの目を取ったり、水槽からアユをとってデコピンして脳振とうを起こさせて焼き場の人に回したりとかがほとんど。あとは賄いを作ったりしていました。朝は親方と市場に行って、誰よりも朝早くお店に入って、誰よりも遅く帰るみたいな生活でした。

――そんな生活は大変ではなかったですか?

しんどかったですけど、尊敬できる方もいたのでぼくは楽しかったですね。何よりも父に認めてもらえそうなお店ではたらけていることがうれしくて。実際、父がお店に食べに来てくれたりもしました。といっても、ぼくは裏でアユにデコピンしていただけなんですけど(笑)。知らずに洗い場に出たら、カウンターに父が座っていて「ああ、来てくれたんやな」ってうれしくなりました。

――お父様とはどのようなご関係だったのでしょう?

家にいなかったので、あまり思い出とかないんですよ。キャッチボールを1回したくらいの思い出しかないから、父を振り向かせたかったんでしょうね。

――「芸人になろう」と決めたのは、まだ先の話ですか?

そうですね。芸人になりたいという気持ちはなかったです。でも、はたらいてしばらくしたころ、高校時代の同級生二人に「一緒にお笑いやろうや」って誘われたんですよ。学生時代におもろいことなんて言ったことなかったようなぼくを。

――なぜ石田さんに声を掛けたのでしょう。

お笑い好きっていうのはバレていたので「石田だったらネタ書けるんちゃうの」ということで声を掛けてくれたみたいです。高校で一番面白いって言われている人たちに求められたことがすごくうれしかったですね。

だから唯一の休みだった日曜にオーディションを受けに行ったりしていましたけど、かなりスベってました。でもそのときに「鼻が通った」というか。これは不思議な感覚ですけど「生きてる」って感じがしたんですよ。自分の中にふたをしていた「お笑いの世界」への未練があふれ出た感じでした。たぶん、それが人生で親のレールから外れて「自分のために一歩を踏み出した瞬間」だった気がします。

会社に雇われていることの良さとは? 「全員が一緒の感覚で話せることは仕事をする上で大きい」

――2年間務めた料理人の仕事では、どんなことを学びましたか?

学んだことは、めちゃくちゃ多いです。

芸人になってはっきり分かったのが、芸人って「自分が売れるため」という心境になりがちなんですけど、料理人の世界は「このお店のため」「このお客さんのため」っていう意識がめちゃくちゃ強いんですね。板前の経験から、自分もその考え方を持てたことが一番大きかったです。

ぼくは吉本(興業)に振り回されるのが嫌じゃないんですね。中には所属事務所に対して不満を言う人もいるけど、ぼくからしたら「でも会社ってそんなもんやから」って思うんです。個人がもうかりたいとかじゃなくて、会社の利益を自分のはたらきとつなげて考えられる芸人は珍しいかもしれないです。

――まさに、会社員の人は「会社に雇われている」ことになります。その中ではたらく良さはどこにあると思いますか?

雇われているってことは、この会社やチームの一員なんですよね。芸人だろうがスタッフだろうが垣根がない。だから全員が一緒の感覚で話せるというのは、仕事をする上で大きいです。それは飲食店でも同じで、料理人だろうがホールの人だろうが、パートのおばちゃんだろうが、みんな一緒なんですよ。そのチーム感覚は今もあります。だから、会社勤めの人は仲間がたくさんいていいなって思いますね。

――石田さんは、現在の相方・井上裕介さんと2000年にコンビを結成して、23年目になります。そのキャリアで最も大変だった時期はいつでしょうか?

ぼくの抱えるジレンマとしては、劇場でやる漫才が好きで「漫才師になりたい」って思っていたのに、漫才が認められれば認められるほど、テレビに出る仕事が増えることでした。

もちろんテレビの仕事が悪いという意味ではなく、自分が漫才を好きになったきっかけが劇場で見る漫才だったからだと思います。小さいころ実家にはテレビがなくて、中学の終わりに姉と行った二丁目劇場で初めて漫才を知って、こんな漫才師になりたいと思いました。その後、家に来たテレビで漫才を見ても、やはり劇場で見るほうが面白いと感じて。それでぼくは漫才師と同じ「劇場」という空間にいることが好きなんだって気付いたんです。

でも漫才がうまくなればなるほどテレビの仕事が増えて、ロケやトーク、ギャグとかモノマネもせなあかん。そうした劇場以外の仕事がどんどん増えていった時期が一番苦しかったですね。

――そのジレンマを、どのように解消していったのでしょうか?

解消は今も完全にはできていないですよ。いまだにテレビの仕事には苦手意識があります。だけど当時ぼくの中ではたらき方改革をして、この仕事ならまだ得意かもしれないと思う番組以外にはできるだけ出ないという解決案をとることにしました。ただしぼくのそうした条件をのんでもらうためには「仕事で実績を残す」しかなかったんです。

心の弱った時期を支えた恩人たちの一言。頑張り過ぎず「今の自分を認める」こと

――どのように実績を残そうと思われたのでしょうか?

分かりやすいのが「M-1グランプリ」で優勝することでした。でもじつは「M-1」で認められたらテレビ出演も増えるから、ぼくのジレンマは解決しないんです。でも「M-1」で結果を出さない限り「これは嫌です」って言える時代は来ないので、つらいけどここは通過しないといけないと思って「M-1」への挑戦を続けていました。

――その結果、2008年にNON STYLEさんが優勝を勝ち取るわけですね。半端な努力では日本一の称号を得られません。その頑張りやモチベーションを支えたものはなんだったのでしょうか?

「自分は面白くない」ということに早く気付けたことが大きかったです。じつは、周りから求められることが増える一方で、その求められることができないという時期が続いて、心が病んでいったことがあります。

――「M-1グランプリ」優勝前にそんなつらい時期があったのですね。どのように回復に進んだのでしょうか。

ぼくには命の恩人がいて、それが心療内科の先生とブラックマヨネーズの吉田さんなんですけど、吉田さんはぼくに「石田は面白いことを言おうとし過ぎや」ってアドバイスしてくれたんです。「それは面白いことを求められるから」と、ぼくは思ったんですけど「俺からすると石田っておもろい人間やから、石田が普段から思っていることを口にしたらいいだけやで」って言ってくれたんです。それで、別に無理して面白いことを言わなくてもいいのかと、気がラクになりました

心療内科の先生は、ぼくが小中高と友達も少なくて、目立つようなタイプじゃなかったと話すと「そんな石田さんが今、たくさんのお客さんが見ている前で大きな声でしゃべっている。それだけですごくないですか?」って言ってくれました。

それから「石田さんの仕事は求められるハードルが高いですよね。最終ゴールとなる目標自体は変えなくていいので、その代わり目標までにたくさんの駅(ゴール)を作ってあげてください。まず一番近い駅は『(ネタ用の)ノートを開ける』ことです。毎日これさえクリアすればOKです」と提案してくれました。心が弱って何もできなくなっていた自分も、それだったら達成できる。そうやって駅がどんどん進んでいき、最終的に目標だった「M-1グランプリ」の優勝へとつながりました。その二人のおかげで今の自分がいるんです。

――求められることに必要以上に頑張り過ぎてしまう人はたくさんいると思います。石田さんの経験は、そんな人たちの助けになるようなお話ですね。最後に、今後の展望についてお聞きしたいです。

最近は「お笑い」がかっこいいものになっていて、それはすごく良いことだなと思っています。ただぼくが一番やりたいのは、お笑いをもっと身近で接しやすいものにすることです。だから去年は、500円で漫才が見られる舞台とか、子ども向けのお笑いの劇とかを大阪でやりました。ぼくは貧しくて娯楽が少ない環境で育ったので、500円で見られた漫才がすごく面白かった。同じように娯楽が少ない人に娯楽を与えてあげられるような身近なお笑いをしたいですね。

※インタビュー後編はこちら
NON STYLE・石田明の「はたらき方改革」。週休2日で心の余裕を大切に

【プロフィール】
NON STYLE・石田明●1980年生まれ、大阪府出身。井上裕介とともに2000年にお笑いコンビ「NON STYLE」を結成。2007年に「爆笑オンエアバトル」9代目チャンピオンに輝き、翌年に東京進出。同年に「M-1グランプリ」で優勝を果たす。2010年には「S-1バトル」初代グランドチャンピオンを獲得。その年の12月23日に、「S-1バトル」の賞金1億円を元手に、さいたまスーパーアリーナで無料ライブを行う。また現在は、NSC講師や舞台の脚本など活躍の幅を広げている。
YouTube:NONSTYLE石田明のよい〜んチャンネル

取材・文=青柳麗野
撮影=寺内暁
編集=久野剛士

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