男子野球の国際大会「WBSC世界野球プレミア12」では日の丸を背負った侍ジャパンの一投一打に大きな注目が集まりました。一方で、日本では多くの女子プロ野球選手が活躍しているのをご存知でしょうか。
今回は、女子野球日本代表の一人であり、東京ヤクルトスワローズの川端慎吾選手を兄に持つ、埼玉アストライアのキャプテン・川端友紀選手のキャリアや、いま描いている夢に迫ります。
野球が好きというより、負けず嫌いだった
――川端さんは中学・高校時代にソフトボールを始め、実業団選手を経た後、プロ野球の世界へ転向した球歴をお持ちですが、どういった経緯で野球を始めたのでしょうか?
「野球好きで少年野球の監督もしている父と、すでに野球を始めていた兄(東京ヤクルトスワローズの川端慎吾選手)の影響もあって、小学3年生のときに貝塚リトルリーグという少年野球チームに入り、硬式野球を始めました。特に兄は小さいころからボールやバットに触れて育ったので、私も兄のまねをして遊んだりすることが多かったんです」
――当時はどんな思いで野球をしていましたか?
「野球が好きというより、『うまくなりたい』『男の子に負けたくない』という気持ちのほうが強かったです。子どものころから負けず嫌いでしたので。野球だけではなく、運動会やマラソン大会などの競争でも男の子に負けたくないっていう気持ちが強くて、男の子に混じりながら『1位が取りたい』と思っていました」
――負けず嫌いの性格というのは何によって育まれたのでしょうか?
「一番は兄の影響ですね。兄は手加減が嫌いで、家で遊んでいてもいろんなルールを作って、私が負けて悔し泣きするのを笑いながら楽しんでいました(笑)。例えば『10球捕れたら終わり』とルールを作って兄がノックをするのですが、9球目、10球目でとても速い球を打ってきたりするので、私は捕ることができず、いつまでたっても終われないんです(笑)。そういうことを毎日のようにやっていたからこそ、いつか兄に勝ちたいという気持ちが芽生えたのかもしれません」
――家族同士で野球について熱く語ることも多かったのでしょうか?
「確かに基本的には野球のことが多いのですが、そこまでかしこまった雰囲気ではなくて、『こういう場面でこういうプレーはするなよ』という父の解説付きでプロ野球の試合を見たりしていました。そうした経験から野球について学ぶことができましたし、兄ともお互いが練習相手になって毎日練習できたので、野球をする上での環境はとても良かったと思います」
中学3年の春、ギブスをつけたまま大会に出場
――そんな野球一家のなかで育った川端さんが、中学に入ってソフトボールに転向した理由とは何だったのでしょうか?
「野球をずっと続けたい気持ちはあったのですが、今のような女子プロ野球はなかったので、将来的に目指すものがなく、続けるのが難しかったんです。ソフトボールを始めてからはオリンピックに出場する夢もでき、本気になって取り組めました。当時は高山樹里選手や上野由岐子選手のようなピッチャーになりたいと思っていましたね」
――ソフトボールをしていたころの思い出に残っているエピソードは何ですか?
「中学2年生の冬に、体育の授業で左腕を骨折してしまったんです。3年の春の大会でピッチャーが私しかいなかったので、ギブスをつけたまま大会に出て、片手で投げて片手で打っていました(笑)。医者には止められたのですが、チームに迷惑をかけられないという気持ちと、卒業前の残りわずかな大会だったので優勝したいという気持ちで、あきらめられなかったんです」
女子プロ野球リーグ創設に「こういう運命だったのかな」と感じた
――その後川端さんはソフトボールの実業団選手を経て、プロ野球へ転向することになります。そのきっかけとは何だったのでしょうか?
「実業団チームでソフトボールをしていたときも、オリンピック出場を目指していたのですが、北京オリンピックを最後にソフトボールがオリンピック競技から外れることになってしまったことや、実業団における自分の思い描いていた環境とのギャップもあったので、まず一旦ソフトボールとは距離を置いて、違う道を目指そうと退社をしたんです。
そうしたら『一年後に女子プロ野球リーグができる』と聞いたんです。退社してからもソフトボールや野球をやりたいという気持ちはずっとありましたし、『こういう運命だったのかな』と、退社の1年後に女子プロ野球のトライアウトを受けました。
ソフトボールでオリンピックに出場することは子どものころからの目標だったので、競技から外れたことは本当にショックでしたが、今は女子プロ野球選手として日本代表にも入ることができたので、日の丸をつけてプレーできたことで夢はかなったのかなと思います」
「野球を思い切りやって、結果を残してついてきてもらおう」
――これまで野球をしてきたなかで一番うれしかったことは何でしょうか?
「一昨年のチーム優勝ですね。ずっと優勝できなくて悔しいシーズンが続いたなか、やっと優勝することができたんです。新しくチームが結成されてキャプテンとしての初めての年だったので、最初はバタバタしてチームワークがどうと言っている場合じゃなかったのですが、それでも選手一人一人がやるべきことをやって、最後みんなで優勝を勝ち取れたので、うれしさもひとしおでしたね。
個人的にも調子が良くて、MVPを獲ることができたので、うれしいことが重なった年でした」
――キャプテンとして全員をまとめるというのは大変なことだと思うのですが、実際はどうでしたか?
「人生初のキャプテンでしたし、先輩もたくさんいたので、初めは本当にどうしていいか分からず悩んでしまってあまり動けなかったんです。でも先輩に『悩む必要ないよ、背中で引っ張ればいいんじゃない?』と言っていただいてから気が楽になって、『野球を思い切りやって、結果を残してついてきてもらおう』と吹っ切れることができました」
スランプを乗り越えたことが強さになった
「でも、だからこそ2014年のスランプのときは責任を感じていました。なかなか結果が出なくて、最初から最後まで自分の思うようにいかなくて苦しい思いをしましたね。
当時はひたすらバットを振って、バッティングフォームを動画で撮影して確認したり、周りの指導者の方に見ていただいたりといったことを重点的にしていたのですが、スランプを乗り越えてみると『そういう問題じゃなかったのかな』と思います。
つまり、打ちたいという気持ちのあまり打てない球に手を出したり、打つべき球を打つことができなくなっていたり、体のバランスが崩れていることに気づけなかったりと、気持ちばかりが先行してしまうという、精神的な問題だったんです。
でも、そこでもがいたことが今年につながったと思いますし、スランプを乗り越えられたことが強さになったと、自分にとっていい経験として捉えています」
――現在、困難に直面したり、失敗をしてしまったときに心がけていることはありますか?
「まず深呼吸するようにしています。深呼吸すると落ち着いて次やるべきことが見えてきますし、『どうしよう』と焦った思いのまま何かをしようとしても、過去ばかり気にしていい結果を残せないと気づいたので、まず冷静になることを大事にしています」
満員の球場でプレーをすることが夢
――ちなみに、川端さんが目標としている人物を教えてください。
「やはり兄ですね。子どものころから近くで見てきたというのが大きいのですが、プレーヤーとしても尊敬していますし、少しでも良いところを盗んで自分に生かしたいと思います。会ったときには『こういう場面ではどうしたらいいかな?』と野球についてアドバイスをもらいますし、それを少しでも吸収して、もっと良い選手になれるようにと思っています」
――川端さんが抱く今の夢は何ですか?
「やっぱり女子プロ野球自体がなかなか認知されないもどかしさは感じているので、より多くの方に女子プロ野球の魅力を知っていただいて、満員の球場でプレーをすることが夢です。そのためには私たち選手もレベルアップしないといけないですし、私たちのプレーで子どもたちに夢を与えたり、いろんな人に感動を与えたりできる野球をしていきたいと思います」
結果を残すためにあきらめない
キャプテンとしてメンバーを率いるためにまず自分が結果を残す。キャプテンとしての川端さんの姿は、プロジェクトに取り組む社内のチームワークにも通じることですよね。人をまとめることに悩んでいるビジネスパーソンは、ぜひ参考にしてはいかがでしょうか。
識者プロフィール
川端友紀(かわばた・ゆき) 1989年生まれ。大阪府出身。内野手(右投左打)。高校卒業後、塩野義製薬にソフトボールの実業団選手として入社。その後日本女子プロ野球リーグ「京都アストドリームス」に2010年から2012年まで所属。2013年からは「埼玉アストライア」に移籍し、同年、首位打者としてMVPである角谷賞を受賞。女子野球ワールドカップ日本代表としても活躍している。
※この記事は2015/11/25にキャリアコンパスに掲載された記事を転載しています。
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