仕事によって埋められる「孤独」もある。シングルマザーの母を見て気づいたこと

うれしかったり楽しかったり、あるいは悲しかったり苦しかったり。「はたらく」とはそんな瞬間の積み重ねです。そして、その一瞬一瞬の連なりが、人生を彩っていきます。この連載では、各分野で活躍している人に「はたらくこと」についてのエッセイを寄稿してもらいます。第7回の寄稿者は、『ピュア』(早川書房)や『メゾン刻の湯』(ポプラ社)などの話題作で知られる小説家・小野美由紀さんです。

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私のお母さんは、不良だ。
小さい頃からずいぶん長いこと、私はそう思っていた。

8歳の時だ。朝起きてリビングに行くと、見ず知らずの男がソファーにぐでんと寝そべっていた。
頰には濃い無精髭、アフリカオオケムシを束にしたようなもじゃもじゃのドレッドヘアで、鼻と耳にはピアスがぶら下がっている。があがあといびきを掻いて寝ている彼の風貌は、どう見てもかたぎではない。

ああ、ついにこの時が来たか。
幼い私は思った。

“母の愛人”に、対面する時が。

そそくさと部屋に引っ込むと、日記にその事を書き記した(通っていた小学校では、毎日日記を書くことが義務付けられていた)。玄関に転がる、泥だらけの巨大なスニーカー。壁にかけられた無骨なジャンパー。私が生まれた時から”
男”というもののいない我が家では、それらのものは淡いクリーム色の壁紙の中で浮き上がって見えて、私はそれらについての印象を一つ足りとも取りこぼさないように書きつけた。

その次の日、起きて来た母は私を見るなりニヤニヤしながら「あんたバカねぇ」と言った。

「愛人なわけないじゃない。吉祥寺で会社の飲み会があって、バイトの子が酔いつぶれちゃったから仕方なく家まで運んできたのよ」

どうやら日記を読んだらしかった。私は自分の早とちりに恥ずかしくなると同時に、そうは言っても、女だけで暮らしてる家に、男の部下を泊まらせるなんて、不用心じゃないのかなあ。とぼんやり思った。

母は私を抱き寄せると、むに、とほっぺたを引っ張って、
「愛人なんてませた言葉、どこで覚えたのよ」
いやいやいや、お母さん、あなたの本棚に所狭しと並ぶ、本の中ですよ。

多忙な日々を送る、編集者でシングルだった母

幼い頃の私の遊び場は、母の仕事相手の本が並ぶ、巨大な本棚の中の本の海だった。村上龍や山田詠美、田辺聖子。人生の先輩たちが書き残した本が、私に人生のなんたるかを教えてくれた。
裏を返すと、母との繋がりはそれ以外になかった。
書籍編集者だった母の生活は、およそ世間一般の正しい<母親>の送る生活とはかけ離れていたから。

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明け方3時4時の帰宅は当たり前。珍しく22時ごろに帰宅しても、深夜までリビングで難しそうな顔をして紙の束に向き合い、いつの間にかそのまま寝落ちしている。テーブルの上にはタバコの山。朝11頃にのそりと起き出し、泥のようなコーヒーを流し込んで出勤する。作家さん達とのパーティーだか何だかで大酒飲んで帰宅して、そのまま酔いつぶれて玄関に倒れていることもしょっちゅうだった。365日仕事に追われて忙しく、同世代の友人と一緒に遊んだりしているのを見たことがない。母の代わりに祖母が育児を完璧に遂行していたから、不自由な思いをしたことはなかったけど、そんなだから私は冗談抜きに、大人になるまで「どこの家のお母さんも、夜3時4時まで帰ってこないのが普通なのだ」と思っていた。

バブル時代に青春を謳歌した母の服装は、授業参観で見る他の子の母親たちからはかけ離れていて、私はそれが恥ずかしかった。ショルダーパッドで山のように肩の盛り上がったジャケット、ミミズみたいなソバージュヘア、真っ赤な口紅にハイヒール。運動会の時ですら、埃一つ付くのも惜しそうなギラギラの高級スーツで応援に来る母は校庭で異彩を放っていて、私はせっかく来てくれた母と一言も口を聞かなかった。

「嫌だなぁ、なんでうちのお母さんは、他のお母さんと違うんだろう」
「私、大きくなっても絶対にお母さんみたいになりたくない」

私は普通の家庭を持って、普通に楽しく暮らすんだ。
普通、普通、普通、普通にならなくちゃ。
破天荒な母の姿は、私にとって最大の反面教師だった。

「普通」の呪いに縛られた私が選んだ仕事

翻って、今。

朝11時、布団の中からのそりと起き出す。恋人がリビングのテーブルの上に残して行ったハーブティーと、簡単な朝ごはんを胃に落とす。低血圧のため恐ろしく気分が悪い。コーヒーの代わりに大量のサプリメントを口に流し込み、目を覚ますためにタイマーでセットしておいた風呂にざぶんと入る。ようやく頭が働いてきた頃、ふらふらとスタバに出かけて1時間ほどぼーっとし、ようやくノートパソコンを開いて仕事に取り掛かる。

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今日はエッセイの原稿が1本と小説のゲラ戻し、それから主催するクリエイティブ・ライティングスクールの生徒さんが提出してくれた作品の添削が1本。めったに飲み会にも行かないし、編集者とのやりとりはほぼメールで済まされるから、人と話す機会もほとんどない。1日の多くをほぼ一人で過ごす。孤独な生活だ。
週一のヨガは欠かさず、不安定な心を鎮めるために毎日瞑想する。意地でもタバコもお酒もやりたくない。
編集者から「玉稿ですね」とメールが入っていれば死ぬほど安心するし、返事がないときには不安になる。たぶん私は未だに母親に褒められたい。

あれほど「普通」になることを夢見ていたのに、今の私は立派に“かたぎではない”働き方を選んでいる。

就職活動は軒並み面接で失敗し、バイトも3日で首になった。内定のないまま社会に出て、何がしたいのかもよくわからないままフラフラしているうち、気がついたら母のいた出版業界で、書き手として生活している。子供もいないし未婚なので考えることといえば仕事の事ばかり、仕事に塗り潰された1日が終わればまた仕事の色に塗られた1日がやってくる。

こうなって初めて、あれだけ身を粉にして働いていた母の気持ちを想像できるようになった。
母もまた、孤独を塗りつぶすために一心不乱に仕事に向かっていたんじゃないか、と。

仕事によって埋められる「孤独感」もあるはず

仕事をしている母はとても楽しそうだった。彼女が仕事に関して愚痴を言っているのを私は見たことがないし、仕事相手の電話に出るときの声はいつも朗らかだった。今から思えば、3時4時まで起きているのは作家から届く原稿のファックスをずっと待ち続けているからだし、パーティーも付き合い、同世代の女友達がいないのは不規則な仕事環境で息つく間もなくあちこちに飛び回っていたからだろう。

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そもそも母が社会に出たのは「一橋大学に女生徒が4人しかいなかった」時代の1969年である。「出版業界を選んだのも、正規で女子学生を受け入れる企業なんてほとんどなかったから消去法よ。べつに編集者になりたかったわけじゃない」と彼女は言う。レディ・ワーカーが少ない時代に、同世代の女性たちと話が合わなかったのも頷ける。

友達との付き合いも、生活の楽しみも、全部を捨てて、母は男社会で揉まれる事を選んだ。

母の生活はワークライフバランスを重要視する現代の中ではとても受け入れられるものではない。まさに昭和の猛烈サラリーマンで、「仕事が生きがい」という文字が背中に透けて見えるようだ。孤独を紛らわすために没頭していたのか、忙し過ぎて孤独にならざるを得なかったのか、どちらが先かわからないが、仕事は女手一つで子供を育てる母の寂しさを埋めるための唯一の手段だったし、多分、救いだった。

母がそんなだったおかげで私は仕事というものに対してネガティブな思いを抱いていない。この業界で出会う人々も皆、基本的に仕事が好きなようだ(そうでなければこんな激務には堪えられないだろう)。一般的に、女性が仕事をするということを肯定的に捉えてくれている業界だと思う。一方で、この業界じゃなかったら働けなかっただろうなという変な人もたくさんいるし、仕事のせいで私生活がおろそかになり家庭がぐちゃぐちゃの人もけっこう見る。魑魅魍魎が跋扈する、掃き溜めのような世界が私はわりかし好きだ。

今の世の中、とかく仕事の分が悪い。働きすぎは悪だし、家族を大切にして健康的な生活を送ることがよしとされる。それは確かにその通りだと思うが、一方で、母がそうだったように、仕事にしか救われない人、仕事を通して己の人生を肯定するより他にない人もまた、たくさんいるだろうなと想像する。

仕事というのは金を稼ぐ手段である以上に心を満たす手段であると私は思うし、個人では人とつながりを作るのが苦手な人でも仕事を介せば人とつながることができる。孤独なシングルマザーだった母にとって仕事は社会と接続するための蜘蛛の糸であっただろうし、アイデンティティーでもあったのだろう。

今の私にとって、作家という職業がそうであるのと同じように。

不器用で、人が苦手で、あまり外に出たがらない母は今、70歳になってようやく引退した。今何をしているかというと、でかいエレクトーンを買い込んで下手くそなエチュードを奏で、毎日音楽教室と24時間のジムに通っている。これまで仕事にぶつけていたエネルギーが有り余っているようだ。老人の一人暮らしだが、全くもって懸念はない。良くも悪くも、好きでも嫌いでも、母は人生の先輩で、私に仕事の面白さを教えてくれた達人なのだ。心配する方が野暮というものである。

文=小野美由紀
作家。1985年生まれ。慶応義塾大学フランス文学専攻卒。2015年、デビュー作エッセイ集『傷口から人生』(幻冬舎)を刊行。他に、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、旅行エッセイ『人生に疲れたらスペイン巡礼~飲み、食べ、歩く800キロの旅~』(光文社新書)、小説『メゾン刻の湯』(ポプラ社)、『ピュア』(早川書房)などがある。@Miyki_Ono
創作力を育てるオンラインスクール「書く私を育てるクリエイティブ・ライティングスクール」主催。

編集=五十嵐大+TAPE

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