都会で日々忙しくはたらく人たちにとって、移住は“スローライフ”“余生を楽しむ”といった印象が大きい。
通勤電車から解放されて、大自然の中で悠々自適な生活を送る……
田舎への移住は、あくまで一線から引退した後のご褒美……
そんなイメージとは反対に、36歳で青森県三沢市に転職・移住し、自らの市場価値を高め続けている人がいる。プロドラマーであり、今では5つの生業を持つ、長堀晶(ながほり・あきら)さんだ。
「田舎でもバリバリ働いている人はいる。地方への転職はスローダウンではなく、むしろキャリアアップにつながる」
その言葉に込められた意味とは?長堀さんに話を聞いた。
【プロフィール】
長堀 晶
1975年生まれ、東京・浅草出身。1996年、プロドラマーとして経歴をスタートさせ、RecordingやLiveTour、Media出演など多くのアーティスト活動をサポートする。2012年、「情報発信拠点が必ずしも東京である必要はない」と考え、結婚を期に青森県三沢市へ移住。現在は音楽活動に加え、材(zai)株式会社で青森県の観光マーケティングに携わるなど、エンターテイメント性を踏まえた視点で様々な企画を展開している。それ以外にも市民団体「Misawa Music Lovers」代表、飲食店経営、地域資源活用商品の開発など、計5つの生業を持つ。
人から“求められて”駆け抜けた東京時代
―― なぜ長堀さんは、36歳という年齢で三沢市への転職・移住を決めたんですか?
「東京でなくてもいいんじゃない?」と思うようになったことがきっかけです。インターネットが普及して、物理的な距離がハンデになりにくくなってきたこと、東京で15年頑張ってきた結果“どこでもやっていける”という根拠のない自信を持てたことが大きいですね。
三沢市を選んだのは、妻のふるさとであることや、三沢の街全体がもつ雰囲気に興味を惹かれたことが理由なんですが、“東京を離れる”という選択肢は、結婚前から頭にありました。
―― 東京ではプロドラマー、そしてオーディオメーカーの社員として活躍していたそうですね。
一見まったく違うキャリアですが、実はどちらも“人から求められてスタートした” という共通点がありまして。
音楽活動を始めたきっかけは、「君みたいな人がアシスタントについてくれたらいいね」と師匠と呼べる方に言ってもらえたこと。ドラムについては師匠のほうが圧倒的に詳しいはずですが、私も結構ドラムの研究をしていたので、互いに話が盛り上がったことを覚えています。突き詰める姿勢を評価してもらえたのかもしれません。
プロドラマーから株式会社リンジャパンというオーディオ輸入商社に転職したときも、グループ企業のトップの方に声をかけていただいたんです。「音楽活動がひと段落するまで待つよ」とまで言ってもらえて……。「こんなうまい話ってある!?」と思うくらい。
―― その中で「どこでもやっていける自信」はどうやって身につけたんですか?
プロドラマーとして“どうやって頭角を現すか”ということばかり考えていました。バンドにはドラムの席は基本的に1つしかありませんから。競争社会なので、自分のことで精いっぱい。となりの人の事を考える感覚はなかったように思います。その分、自分をPRする視点は強烈に学べました。
リンジャパンでは、それまでとは違う視点をいくつも学ぶことができました。ただ、当時はすごくきつかった……。決められた時間に出社して、朝礼に出で。ちゃんと生きていくって大変だなと(笑)。お金の面でも、以前は短時間でギャラがいい現場もありましたが、会社員は地道に勤め上げないといけないですからね。
―― 30歳過ぎて初めてサラリーマンになったというのは珍しいですね。
そう。この経験があったからこそ、いろんなバランスがとれるようになりました。それまでは分業制なので自分の事(ドラムの事)だけを考えていればよかった。でもリンジャパンでは、“ユーザーにとってどうあるべきなのか”という視点が常に求められました。
リンジャパンは1台数百万円もするような最先端のデジタルオーディオを扱っています。高級嗜好品なので、それを好んで購入する方も超一流のお客様ばかり。音に対して強いこだわりがある人々に“どんな価値を提供すれば選ばれるのか”というユーザー視点をこれでもかと学ぶことができたんです。
また、これまでは“演奏家”としてやってきましたが、音源の“作り手”や“聞き手”の視点を学ぶことができたのも、自身の視野が大きく広がるきっかけになったと感じます。
―― ということは、“複数の視点を持てたこと”が自信につながった?
はい。当時の私には、ドラム以外で特筆できる技術や経験はありませんでした。でも仕事を通じて様々な視点を持てたことで“みんなが喜ぶゴールに向かって、道筋を精度高く描き、総合的に導く力”が自分にはあると考えられるようになったんです。
でも、確証があって三沢へ移住したわけではありません。“どんな状況でも乗り越えていける、乗り越えていく”という覚悟にも近い思いが背中を後押ししたのかなと。
音楽業界でもまれた15年。全く違う環境に飛び込んだ2年。人から“求められて”選んだキャリアでしたが、この経験が今の土台になっていると思いますね。
「経験は持っていき、執着は置いていく」
―― 三沢に移ってからはどうでしたか?
まず最初に違和感があったのは、「何もないでしょう~」とあいさつ代わりに言われること。日本人ならではの謙遜だとは思いますが……。そう言わずに、「ようこそ三沢へ!」と言えばいいのになと。
これは結局、“来訪者の目線に立てていない”ということ。楽しみたいと三沢へ来てくれた人からすれば、「何もない」と言われてどう思うか。そういう視点がこの街にも必要だなと思いました。
―― そこで、「変えなくちゃ」という使命感が生まれたんですね!
いや、そうではありません。外から来た人間が押しつけがましく啓蒙するなんて、地元の人からしたら「なんだアイツは」としか思われないですよ。口だけで「ユーザー視点が足りません」なんて言ったところで、誰も耳を傾けてくれないし何も変わりません。
なので“行動で示す””形にする”必要があるなと考えました。地元の人から見たら「何もない」かもしれないけれど、外から来た私だから気づけることがいっぱいありますから。
例えば、青森県産のヒバで作った「ヒバカホン」。私が企画・制作し、2015年11月にニューヨーク・カーネギーホールで開催されたコンサートでこのカホンを演奏したところ、青森ヒバの特性でもある香りとまろやかな音色は、ニューヨークでも大好評でした。
いちユーザーとして客観的に青森県や三沢市を見ると、魅力的な素材は多くあります。ただそれをどう編集して全国、そして世界に発信していくのか。そこを考えるためには、いろんな視点を持った人の存在が必要です。そういう意味では私が東京で経験してきたことは、東京よりも三沢市のほうが大きく活かせるのではないかと考えるようになりました。
―― つまり、「移住者全員がそういった観点を持てる可能性がある」と。
はい。でも、「東京には何でもある」「田舎には何もない」とその人が思いこんでしまっていたら、三沢市のイイところに気づけないはずです。表面的には三沢には“何もない”ように見えますから。
私は三沢市に来るときに、「経験は持っていき、執着は置いていこう」と決めていました。楽器もドラムを1セットだけ残して、あとはすべて売っちゃいましたし。「東京でやってきたことを三沢でもやろう」と考えなかったことが、今となっては良かったなと思いますね。
―― もし経験や自信がなかったら、地方への転職は決断できましたか?
うーん。どうでしょうか……。決断はできたと思うけれど、周りの人にも納得してもらえる転職ができたかと言われると怪しいですね。移るだけなら誰でもできますから。
移住者を受け入れる地域側も、 “受け入れる理由”が欲しいと思うんです。「この人は●●ができる人だから」というわかりやすいキャッチコピーがあったほうが、おせっかいも焼きやすいし、いろいろと声を掛けやすい。
例えば、私は音楽を名刺代わりにしていました。「音楽できる人だろ?」と覚えてもらえることで、比較的早い段階で移住者から居住者の輪に入れてもらえたような気がします。妻の実家が経営している飲食店の盛り上げに関われたことも、周囲の人から見たら関わりやすい要因だったかもしれませんね。
―― 「キャッチコピーが見つからない」という人はどうしたらいいでしょう。
三沢市の「何もないでしょう~」という言葉の考え方と一緒ですね。何もないなんてことは絶対ない。趣味レベルでもいいんですよ。
例えばPCに詳しいとか。東京の当たり前は地方だとそうじゃないことが多いですからね。東京にいたら気付けなかった自分の能力や特徴が、地方へ転職することで多く見つかるなんてことは沢山あると思いますよ。
地方は競争環境がゆるやかな「ブルーオーシャン」
―― 今では会社員以外にも、計5つの生業を手掛けているそうですね。
自分で仕事を選ぶのではなく、「選ばれる人間になろう」と取り組んだ結果、いろんな仕事のオファーをいただけるようになりました。「いい意味で公私混同しろ」と会社が後押ししてくれるのも大きいですね。
前述したとおり、私には特筆できる技術があるわけではありません。でも、三沢市は人口が4万人ほどなので競合が少なく、手を挙げるだけで自然と目立つんですよ。片や東京の人口は1300万人以上。持ってる技術や能力が同じであっても、東京から三沢に移るだけで相対的に注目度が高まり、市場価値も上がります。
―― なるほど。面白いですね。
そうやって目立つと、おもしろい仕事がさらに舞い込んでくるようになります。例えば、街と一緒に仕事をする機会なんて東京時代にはありませんでしたが、三沢に来てからはいくつも手掛けることができました。「●●できる人だと聞いたんだけど」と人づてに噂が広まってオファーをもらえることも増えましたね。
プレイヤーが少ないから、自分のキャッチコピーさえ明示できればそれだけで目立っちゃう。するとおもしろい仕事が集まってきて、そこで実績を残せばさらに知名度が上がってさらに仕事が舞い込んでくる――。こんな好循環に恵まれて、東京時代よりも自身のプレゼンスや市場価値は確実に上がっていると感じます。
―― でもそうなると、とても忙しいんじゃないですか?
そんなことないんですよ。東京にいたときよりも圧倒的に時間に余裕がありますね。日が暮れる頃には家に帰って、ごはんを食べるのが日常です。はじめは「こんな明るいうちからいいのかな」とソワソワしちゃうくらい(笑)。「17時以降解散!」みたいな雰囲気が街中にありますね。
競争環境がゆるやかなので、時間を膨大に掛けなくても十分に価値提供や情報発信ができているんだと思います。はたらく時間が短くなっても、自身のパフォーマンスははっきりと実感できていますから。
―― 「意図的に地方へ転職して、市場価値もはたらき方も向上させる」という選択肢はアリですね。
本当にそう思います。地方であっても都会とそん色ないどころか、より自分に合ったはたらき方ができる人も多いはずです。
ただ、給与面だけはどうしても東京に追いつけないかな。金額や条件だけ見ちゃうと地方企業を選びにくいでしょう。でも大事なのは条件以外の「ソフト面」。仮に給与が下がったとしても、生活水準や満足度は下がるどころか上がるはずです。
―― 表面上の数字だけで、幸せレベルは決められないですよね。
私は三沢に来て家を購入しました。家には畑もあって、やりたいことができる時間もできて。東京にいたときよりも心の充実を感じています。特に年齢を重ねると、“時間に余裕がある”ことの価値をより実感するようになりますね。
競争が激しかった東京時代は「少しでもサボったら置いて行かれる」みたいな脅迫観念に近いものがありました。今も競争心は忘れていませんが、悲壮感のようなものはないですね。
自分の価値を最大限評価してもらえる地域ではたらく
―― はたらく場所として“地域”も選ぶことが、今後もっと増えるような気がしました。
転職って現状をより良くするためにしますよね。給与などの条件が良かったり、やりたい仕事だったり。でも
やりたい仕事とか、自分に向いてる仕事って分からない人も多いと思うんです。
そんなときは、私のように“自分をより高く評価してくれる”、“求めてくれる”場所に移ることで、自分でも気づかなかった幸せに出会うことができるかもしれません。“私が選ぶ”のではなく、“選んでもらうために自分を磨く”という意識ですね。
―― 自分を必要としてくれる地域を見つけるにはどうしたら良いでしょうか。
まずはいろんな地域に接してみることだと思います。私自身も転職前には三沢市に何度も足を運んで、街の雰囲気を感じ取るようにしていました。
最近は各地域の自治体が、積極的に主要都市でイベントを開催しています。
例えば、青森県の企業を紹介する転職イベントが9月8日(土)に、東京大手町のTRAVEL HUB MIXで開催されます。私はその中で、「三沢市への10日間のITリモートワーク体験ツアー」をご案内する予定です。
「どこが気持ちよく暮らせるかな」という自分視点だけでなく、「自分を1番高く評価してくれる地域はどこだろう」とい受け入れ側の地域視点を持って転職先を探すと、新たな発見や選択肢が見つかるのではないでしょうか。
会社データ
材 株式会社
青森県三沢市の企画制作会社。Web、メディア、マーケティングを軸としたサービスで、
地域課題や顧客課題を独自性を持って改善しています。
【所在地】
三沢本社:〒033-0041 三沢市大町2丁目4-7
おいらせ事業所:〒039-2189 青森県上北郡おいらせ町青葉2丁目50-323 PCL 2階
【社員数】
16名
【事業内容】
マーケティング/ホームページ企画制作・管理/メディア運営/各種デザイン/映像制作
商品開発支援/取材代行/三沢ホースパーク運営
※「この記事は2018/08/09にdodaに掲載された記事を転載しています」
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